1925年 – グレイシーアカデミーの誕生
Carlos Gracie(カルロスグレイシー)は、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロに最初のグレイシー柔術アカデミーを開設しました。カルロスと彼の兄弟は、日本から移民した前田氏から学んだ日本式柔術を教えていました。カルロスの末弟であるHelio Gracie(エリオグレイシー)は訓練をするには、体格がとても小さくて、兄カルロスの指導を見ているだけでした。
1928年 – 変化到来
1928年のある日、兄カルロスが、指導開始時間に遅刻したことがありました。その時、エリオが代わってクラスを教えることを任されました。エリオの柔術のテクニックは、磨かれたものではありませんでしたが、何年も兄カルロスが教えていることを、いつも注意深く見ていました。あらゆるテクニックをよく知っていた上に、エリオは小柄だったため、自分が体格で劣る場合、大きい相手に通用しないことがあることをよく知っていました。しかし、エリオはあきらめずに、力とスピード頼らず、テコの効果と適切なタイミングでテクニックが発揮できることを開発していきました。
1931年- 最初の挑戦者
エリオは、修練を重ね、自分よりはるかに大きいボクサー、アントニオ・ポルトガルにチャレンジし、制圧し勝利しました。これは彼が開発したテクニックを利用すれば、小柄でも、はるかに大きく、運動神経が優れた相手でも制圧することができることを証明したのです。これを機に、エリオは日本の柔術の技術を少しづつ変形させ、大きい敵から身を守ることができる新しい技術開発に継続するに至りました。
1947年 – エリオ・グレイシー VS. ジョー・ルイス
1947年6月6日 エリオは、こんな記事を目にしました。「柔術よりボクシングが優れている」 この記事の間違いを証明するため、当時のヘビー級ボクシング世界チャンピオンのジョー・ルイスに異種格闘技マッチを挑みました。
ジョーのマネージャーは、その挑戦を拒否し、試合が果たされることはありませんでした。ですがエリオが、彼が開発した柔術の有効性を証明できるなら、いつでもどこでも誰とでも、試合をする準備ができていることを、世界に知らせる大きなきっかけとなりました。
1951年- 木村政彦との対決
1951年10月23日 エリオは、当時、日本柔術のトップ選手だった木村政彦と戦うこととなりました。木村はエリオより体重がなんと、36kgもより重く、エリオに3分以内に勝利することができると、自分の勝利を豪語していました。柔術世界チャンピオンを相手に、エリオ自身が20年以上かけて開発し、変形させた柔術のテクニックがどのような効果を発揮できるか真価が問われることとなりました。
しかし、結果は、エリオは現在の「キムラロック」と呼ばれる「腕がらみ」の技を木村政彦にかけられ、肩関節の負傷寸前で、兄カルロスがタオルをリングに投げ入れました。試合が中断させるまでの約13分の間、小柄なエリオは、彼の技で、木村を困惑させ続けました。勝利を得ることはできなかったが、木村はエリオが開発した技術に感銘受け、日本の同僚に紹介をするほどでした。エリオは、この試合を通じて、得たものの方がはるかに多かったと言えます。
1955年 – 最も長い戦い
43歳になったエリオは、1955年5月24日 ヴォルデマー・サンタナと世界で史上最も長い戦いを繰り広げることとなりました。
サンタナはエリオよりも20歳も若く、体重が20kg重い相手であり、さらにグレイシー柔術アカデミーの弟子でした。戦いは、休憩なしの3時間40分も続き行われました。精神的に追い詰められた弟エリオを見兼ねた兄カルロスが試合を中断させ、サンタナの勝利となりました。若くて、運動神経が優れ、高度の技術を兼ね備えたサンタナの攻撃をほぼ4時間の間、受け流すエリオの能力に多くの人々が賛辞を送り、末永く人々の記憶に残りました。そしてまた、エリオが開発した技術の有効性を示すすばらしい機会となり、これにより、多くの人々がこの技術を学ぶためにグレイシー柔術アカデミーの名が世に広がる歴史的な契機となりました。
1978年- 家のガレージで、グレイシー柔術がアメリカで誕生する
1978年の夏 エリオの長男ホリオン・グレイシーは、エリオが開発した自己防衛のための画期的な技術を広く知らせることを決心をし、ブラジルを離れてアメリカに移りました。
ホリオンは、アメリカでのグレイシー柔術の普及がすぐにグローバル化することに確信を持っていました。成功の信念と柔術への情熱だけを持ったまま、南カリフォルニアに定住しましたが、資金不足と他の格闘技道場から支援を受けることができず、結局ホリオンの家のガレージで柔術を教え始めました。最初は訪れるすべての人に無料で柔術を学ぶ機会を提供し、開始数ヶ月も経たず、人々は熱心に柔術の魅力に魅せられていきました。
1980年 – グレイシーチャレンジ
他の格闘技よりもグレイシー柔術が優れているということ世に知らせるため、ホリオンは体格条件や種目を問わず、誰の挑戦でも受け入れることを公表しました。
空手、ボクサー、レスラー他のすべての種目の格闘技が挑戦をしたが、グレイシー柔術だけの護身とそのソフトでで効率的なテクニックに世の中は驚きを隠せずにいました。
1989年- グレイシー柔術アカデミー
ホリオンは、弟のヒクソン、ホイス、そしてホイラーと共に、ユニークなブラジルの自己防衛の武術を学びたい人々に対し、爆発的な需要に対応するためにカリフォルニアのトーランスにグレイシー柔術アカデミーを開設することとなりました。
カリフォルニアの格闘技関係者は。相手を続けざまに制圧するグレイシー柔術に登場に驚きを隠せませんでした。ガレージに開設したスクールは、130人の生徒が集まり、80人が入会を待機するほどになりました。ホリオンは現在、世界のグレイシー柔術の総本山となるグレイシー柔術アカデミーを開設することになりました。
1993年- 全世界がグレイシー柔術を知る
1993年11月12日ホリオンは、Ultimate Fighting Championship®(UFC)を設立し、TVを通したメディアで反映され、格闘技の世界を完全に変えていきました。
1970年代、80年代にハリウッドでは格闘技が人気を呼び、多種多様な格闘技が世界で一番優れていると確信していると、乱立を起こしていました。この出来事をホリオンは、「試合を通じて、各競技が優秀性を証明することができる試合行えば証明できる」と考えました。結果は、体格が最も小さく、誰も予想できなかったホイス・グレイシーが8人トーナメント方式のマッチで優勝をすることになりました。先代エリオが成し遂げた勝利と、ホイスのグレイシー柔術は、世界で最も信頼性の高い自己防衛技術であることを証明しただけでなく、一般の人たちも、自分よりもはるかに強く、体格条件が優れた相手と競うことができる機会を提供する唯一の方法であることを証明するものとなりました。
1994年 アメリカ陸軍は、実践的で有効で優れた戦闘方式として、グレイシー柔術を採用
アメリカ軍の特務部隊が公開的な効率試験を通じて、グレイシー柔術が最も効率的な戦闘方式であると判断しました。
軍は、ホリオン・グレイシーに兵士たちが実戦で最も早く学ぶことができる集中カリキュラムを開発してくれることを要請しました。
ホリオンは数多くの試合を分析して、その中で最も多く使用されて、最も効率的な36個の技術を識別して、これを軍に紹介することになりました。
まさにこの36個の技術は、現在、アメリカの軍の近代戦闘過程の基礎となっており、全世界の何百もの国の軍隊はもちろん、警察も採用しています。
ホリオンは、この36個のテクニックを軍隊だけでなく、一般市民にも向けて、より分かりやすく柔術を使った護身術「グレイシーコンバティブス」として改善しました。
そして、グレイシーユニバーシティというオンラインでの学習システムツールを築き、いつどこにいても、誰でも、自己防衛の技術を学ぶことができる人々の数を格段に広げました。
2007年 UJC代表 チアゴ先生は、競技の柔術に出会い、茶色帯まで競技の柔術のみを学ぶ
2008年 グローバルオンラインプログラム
そのホリオンの息子ヒーロンとヘナーは、これらの自己防衛の方法を維持させるために、グローバルトレーニングプログラムを開発しました。
それは、スポーツ種目として高まった人気のブラジリアン柔術を学びたい需要が世界的に増え続けている真っ只中でした。
スポーツとしての柔術は、多くの人に趣味や運動習慣として受け入れられ需要が伸び、世界的も大会が開かれるようになり競技人口は増えています。
その競技者が増えると、独自に新しい競技用のテクニックが増え、それらは、実戦で活用が可能な効率的な力の使用や自然身振りなどの基本技ではなく、競技試合にフォーカスした技術へ変形しました。ですので、スポーツ柔術の人々はテコの効果やテクニックではなく、実戦では使わない、純粋なスポーツに基づい動作を学びました。
しかし、それは柔術のテクニックをどんどん複雑化させ、力の強い、早い、大きな人が勝利する柔術へと導かれて行ったことも事実です。
創始者のグレイシー一族は、これらのスポーツとしての柔術とは違う原点に立ち返り、ヒーロンとヘナーの兄弟は、グレイシー柔術だけの純粋なプロセスを維持して体系化するために、グローバルトレーニングプログラムを開発することになりました。
2014年 チアゴ先生は世界に通用するの柔術を学び、トップを目指すため故郷ブラジルへ
故郷へ戻ると同時に僕は、人生をかけて柔術をもっと学ぶには、技の意味やその本質を知ることが必要と感じ、グレイシー柔術のプログラムのを学び始めました。
実は、もう一つの理由があり、グレイシーのプログラムを始まめるきっかけは、黒帯になる前に、総合格闘技の試合にチャレンジをしたかったからです。スポーツの柔術だけでは、打撃から身を守ることは学べません。そうなると総合格闘技の試合出ることを難しく、グレイシー柔術のプログラムのように実践で有効な知識が必要でした。
2015年 念願の総合格闘技出場、キムラロックで勝利し、黒帯取得
この勝利の背景には、総合格闘技のトレーニングのためムエタイを学び、グレイシーのプログラムをオンラインで学び続けました。そして日本へ帰国後、2021年に試験に合格し、ヒーロンとヘナーに認められ、ここ堺でグレイシー柔術認定トレーニングセンターを開業しました。日本では唯一、グレイシー柔術のプログラムと競技の柔術を学ぶことができるスクールとして運営をしています。
2020年 Ultimate Jiu Jitsu Club創業
2008年に、現インパクト大阪のウェルソン氏と道場を立ち上げ、2020年10月にインパクト大阪から独立して、ULTIMATE JIUJITSU CLUBをスタートさせました。
2008年創業当初は、マット数枚分の練習スペースしかなく、時には練習場所がなくなってしまう時もありました。しかし、「柔術の素晴らしさをたくさんの人へ伝えたい」その気持ちを持ち続け、ただひたすらに練習を続けました。 今でもその気持ちは揺らぐことはありません。
ブラジル生まれの日系ブラジル人であり、日本へ来て、言葉の壁や環境の変化、生活の違いに戸惑う境遇でした。 辛い時もあれば楽しい事もある、感謝を忘れずに生きていく、 それを実践させてくれたのが柔術でした。
僕は、柔術を教えるだけではなく、生徒として来てくれる人たちの人生がもっと豊かな人生になるように意識をしています。健康や食事に気をつかったり、ストレス発散で気持ちのバランスを整えたり、柔術を通して素晴らしい世の中になれることを願って指導しています。
ULTIMATE JIUJITSU CLUBの取り組み
2020年 内閣府の経営デザインシートを作成
UJCのメンバーの皆さんの健康を願い、柔術スクールとして5年後・10年後の成長を目指して経営をデザインしており、「経営デザインシート」のロゴの使用を内閣府から認められました。
さらに2020年に、内閣府のホームページの活用事例として「IMPACTO大阪アカデミー」として道場経営デザインシートが掲載されました。これは、格闘技スクールでは異業を果たし、さらに個人の成果として逸脱した成果として認められました。
経営デザインシートは企業が持続的に成長する事を目的に、経営の基幹となる価値創造メカニズム(顧客への提供価値を生み出す仕組み)をデザインするツールとして、内閣府によって開発されました。
2023年 堺市主催アクセラレーションプログラムの採択
この度、Ultimate Jiu Jitsu Clubは、堺市の新事業を応援するプロジェクトに選出され、堺市から支援を受けさせていただこくととなりました
「堺市からの支援?どんなプロジェクト?」と興味のある方は、
こちらのサイトをご覧ください。↓↓
https://www.s-cube.biz/acceleration
堺市では、独自の取り組みとして、熱意のある新事業をサポートし、事業の推進力を高めることを狙いとしたにプロジェクトに取り組んでいます。
UJCは、まだまだ日本では稀な、組織化された柔術スクールとして選考会に参加し、素晴らしい機会をいただきました。これから、このプロジェクトを通して、
〇スクールの法人化
〇顧客サービス向上
〇福利厚生の活用
そして、柔術の恩恵、素晴らしさを日本でもっと広められるよう取り組んでいきます。